1. 自分が本当にやりたいこと

インドでの子ども時代

グハ=サピールさんは、1953年11月11日に鉄鋼業で栄えたインド東部の町、ルールケラで生まれました。両親と4歳はなれたお姉さんとの4人家族です。自然豊かなところで、家には広い庭があり、クジャクを始め多くの動物がいました。泳ぎも得意で、スポーツと自然や動物と関わっている時が幸せでした。

グハ=サピールさんのおくに強く残っているのが、10代の頃のもうしょです。土木技師のお父さんは、えんてんで働く建設労働者をいつも心配していました。グハ=サピールさんが初めて体験した自然のもうでした。

家族写真(左から2番目)

家族写真(左から2番目)

公衆衛生学との出会い

中等教育(11-17歳)を終えたグハ=サピールさんはコルカタ大学に進学し、文学をせんこうしました。専攻を決めたのは、親族の長であるさんでした。

17歳の頃

17歳の頃

当時、インドのよい家の女の子は、ふさわしいいを学びよい夫を見つけるための教養を身につけるべきとされ、それには文学が最適だと考えられていたからです。

故郷ルールケラにて 親戚一同(中段・右から2番目)

故郷ルールケラにて しんせき一同(中段・右から2番目)

自分で選んだ学問ではありませんでしたが、グハ=サピールさんは大学に入ると熱心に学び、楽しい大学生活を送りました。しかし、コルカタ大学卒業後の進路を決めるころ、文学は楽しいけれど自分が一生続けたい学問ではないと感じていたグハ=サピールさんは、しんらいしているお父さんに相談しました。お父さんはグハ=サピールさんの能力と意志の強さを知っていたので、とにかくまずはイギリスやアメリカの一流大学に入れるよう、しょうがく金の申し込みをしたらどうかとアドバイスしてくれました。その結果、難関を勝ちいてインドのロータリークラブから得た奨学金を利用し、米国のジョンズ・ホプキンス大学に進学することになりました。いとこが先にこの大学に留学していたので、親族もりょうかいしてくれました。

初めはかく文学を専攻していましたが、ある時、インドで体験した大洪水の時のボランティア活動の話をしたことがきっかけで公衆衛生学の教授をしょうかいされます。この出会いが、彼女の転機となりました。その教授と話すうちに自分のやりたいことが見えてきて、故郷のインドや、他の貧しい国のためになる仕事がしたいという自分の気持ちがはっきりしたのです。もうべんきょうの末、ジョンズ・ホプキンズ・ブルームバーグ公衆衛生大学院のえきがく 科に入学したグハ=サピールさんは、主にかんせんしょうがどのように広がっていくのかなどを研究し、デング熱や出血熱、えきびょうしょうじょう、栄養不良などの研究に取り組みました。

そのころ、グハ=サピールさんが影響を受けたのは、国際保健学のけん、カール・テイラー教授でした。テイラー教授の講義を通して学んだのは、都市部に住む人々と、農村部などその他の地域に住む人々が受けられるりょうの格差です。貧しい国では例えば、お医者さんの数も都市部に集中しており、農村地域ではお医者さんが不足しています。ところが、問題は農村地域で起きているのです。これは貧しい国だけではなく豊かな国でも当てはまる問題です。

こうして、グハ=サピールさんは、この分野について深く学んでいきました。

インドから留学してきたグハ=サピールさんにとって、アメリカでの学生生活は大きなカルチャーショックだったといいます。それまでの人生では、自分とちがかみの色や目の色をした人々を見たこともなかったので、とても不思議に感じたそうです。

大学生時代

大学生時代

また、アメリカでは自分の力を示す自由がある、しかしそのためには常に競争に打ち勝たなければならない、というのも大学で学んだことでした。グハ=サピールさんは朝から晩まで勉強し、強い競争心を持つようになったと言います。

大学生時代

大学生時代

2. 正しいデータの大切さ

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デバラティ・グハ=サピール教授

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