1. 自分で何でもやってみる

言葉のかべを乗りえる

ラマナサンさんは1944年11月、ベンガルわんに面したインド南部の都市チェンナイで生まれました。子どものごろは友達とボール投げをしたり木に登ったり野犬を追いかけたり、外で走り回って遊び、幸せな少年時代を過ごします。学校の成績もゆうしゅうな生徒でした。ところが10さいの時、インド南部の内陸の都市バンガロールにひっしをしたことで、それまでとは全く異なる生活を送ることになり、このことが物事の考え方に大きなえいきょうあたえました。

1951年、7歳

1951年、7歳

バンガロールは英国統治の影響が残る街で、教育の全てが英語で行われていました。一方でラマナサンさんはタミル語しか知らなかったので、かれの成績は平均以下に落ちてしまいました。先生が何を話しているのかわからないことから、彼は全ての教科を自分で本を読み想像しながら勉強することにしました。例えば、重力を理解する時はその仕組みを頭で想像しながら勉強するという具合にです。言葉が自由に使えない中で答えを導き出すには、ただ覚えるだけではなく、仕組みそのものを理解することが必要だったのです。
物事の仕組みを自力で解明していくには必死にがんる必要がありましたが、覚えることと理解することが別のことだと気づいた経験によって、人をたよらず自立して何でも自分でやってみるというラマナサンさんの物事に対して取り組む姿勢が出来上がりました。それは後に数々の科学的発見や功績を成しげたラマナサンさんにとってなくてはならない体験でした。

期待と誤算

その後、成長したラマナサンさんは1965年にインドのアナマライ大学で工学士の学位を取得し、冷蔵機器製造会社で働くことになりました。その時の仕事は、冷蔵機器のコンプレッサーの部品が全て正しく取り付けられ、れいばいれないか確認するという仕事でした。しかし当時、冷媒が何故漏れてしまうのかを理解する知識もなく、決められた指示に従うだけの仕事に面白みを感じることもできず、この仕事は早々に辞めてしまいました。実はこの仕事が10年後のラマナサンさんに多大なえいきょうあたえることになるのですが、この時はラマナサンさん自身そんなことは夢にも思っていませんでした。

会社を辞めた後、ラマナサンさんはインド理科大学院に進学し、流体の温度の変化を正確に測定することができる「かんしょう計」という機械を3年かけて開発しました。これはインド初の国産の干渉計でした。後にラマナサンさんは、「あれは当時のインドでは実現が信じられないようなプロジェクトでした」と語っています。

新しい開発を成しげたことで、ラマナサンさんは自信を取りもどし、自分が研究という仕事や不可能にちょうせんする力に長けていることを意識します。その後、かれは1970年に新しい干渉計開発のため米国にわたり、ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校に移ります。

1970年代

1970年代

当時ラマナサンさんは、「米国で早く工学の学位を取得し、自動車メーカーで仕事をして、あこがれのシボレーのインパラという車に乗って良い暮らしをしたい」という野望を持っていました。

教授が憧れていた車

教授が憧れていた車

ところが彼のアドバイザーであったロバート・セス教授は、そのころ工学への関心を失い、新たに火星と金星の大気を研究することにしてしまったため、ラマナサンさんも火星と金星の二酸化炭素による温室効果の研究をすることになりました。ラマナサンさんにとっては夢が遠のく最悪の大事件でした。そして結果的に、当初学んでいた工学の分野とは異なるわくせい大気の研究で博士号を取得しました。しかし、これが転機となり新たな道が開かれました。

2. もう一つの物質

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ヴィーラバドラン・ラマナサン教授

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