2. 気象学のだいてんかん

数値天気予報の始まり

松野さんが大学院に進んだころ気象学は大きな転換点を迎えていました。天気予報が、予報者の経験による天気図だよりの予測から、天気図のデータをもとに物理法則に則って将来の気圧や風を計算して求める、「数値天気予報」に変わろうとしていたのです。1950年代に登場したコンピュータによってぼうだいな量の計算が可能となり急速に研究をあとししていました。

東京大学の気象研究室でも数値天気予報を日本に導入するための活動が行われていました。松野さんをふくむ気象研究室のメンバーは、気象庁と気象研究所の研究者とともに「東京数値予報グループ」を作ってアメリカの研究を参考に準備的な研究を行いながら、数値予報に必要なコンピュータを導入するための運動もしました。

それが実って、気象庁が当時としては超大型のコンピュータを導入し1959年から数値天気予報を業務として行っていくことになりました。まだ数値天気予報が天気予報の精度を向上させるか分からない段階であったにもかかわらず、非常に大きな費用をかけてコンピュータを準備したのは、気象庁の将来をすええた英断でした。

しかし、数値天気予報が始まっても天気予報の精度は思うように改善されませんでした。今では地上気象観測の他に上空の気温や湿しつを観測するラジオゾンデさらには気象衛星などのさまざまな気象観測データを使った数値天気予報が確立され、各国の天気予報のとなっていますが、当時はコンピュータの能力が足りないうえに、全世界の気象観測データが不十分だったのです。

そんな中、松野さんは数値天気予報を次のステップに進めるための研究をしつつ、短期の予報ではなく、長期にわたる気象現象のしくみを明らかにすることにも興味を向けていきました。

1966年に発表した論文で赤道の近くの大気中に「ケルビン波」と「混合ロスビー重力波」というとくしゅな波動が存在することを理論的に予想しました。気象の世界は複雑で、理論的な予想は簡単なことではありませんが、これらの波動は後に別の研究者によって実際に大気や海洋中に存在することが確認され、松野さんは「良かった、やっぱり正しかった」と安心したそうです。

太平洋の赤道域、真ん中から南米寄りの海面では、数年に一度水温が通常よりも高くなりその状態が半年から1年半程度続くエルニーニョ現象が起こります。ケルビン波はこの現象においても重要な役割を果たしていることが今では知られています。

大学院で博士の学位を取得した後、さらに研究を続けるために教育職に就くことになりました。九州大学理学部の助教授になり、さらにアメリカのワシントン大学とプリンストン大学でも研究を行いました。その中で、それまでなかなか解明されなかった「せいそうけんとつぜんしょうおん」という現象のしくみを明らかにするなど、素晴らしい発見をしましたが、これは基礎的なことを大事にして研究を積み重ねたことが実用的な発見につながったのだと、松野さんは述べています。

日本の研究を支える

コンピュータが登場して少し後、人類は人工衛星を打ち上げ宇宙から気象を観測することも可能になりました。全世界での様々な気象観測データをそくこうかんするシステムも始まり、常に気象衛星で全世界の気象をかんしながら、コンピュータの中で大気の状態を再現し、将来を予測する気象予報システムができました。アメリカやヨーロッパでは、それを支える体制が早くから整備され、コンピュータなどの設備的な面でもじゅうじつしたかんきょうが整いつつありました。

一方で日本では、1960年代のアメリカの動きにげきされ新たな研究の場を作ろうという運動が起こったものの、政府の財政じょうきょうなどから実現することはできませんでした。そんな状況で第一回ブループラネット賞受賞者のなべしゅくろう博士など日本のゆうしゅうな研究者たちの多くがアメリカにわたり、現地で世界をリードする研究を行っていました。

日本にもどった松野さんはアメリカで研究を行った経験から、コンピュータを使えば複雑な現象でもしくみを明らかにできることが分かっていました。そして、日本に残ったこの分野の最年長の研究者として先進的な研究を日本でもできるようにすることが自分の役目だと思うようになりました。

3. コンピュータの中の地球

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松野太郎博士

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