監修のことば
-2016年(第25回)ブループラネット賞受賞者に寄せて-
2016年のブループラネット賞は、インドのシュクデフ氏とスイスのボルナー氏に授与されました。このお二人の業績は、いずれも生態系の保護・生物多様性の保全に関することであると表現することも可能ですが、このところの地球環境の大きな流れに関連付けて、受賞理由を解釈することが良いように思われます。
2015年は、地球環境にとって、あるいは、人類史にとって、極めて重要な転回点でした。現時点では、まだそのような理解が一般化したとは言えないのですが、パリ協定、持続可能な開発目標(SDGs)、そして、ESG投資、この3つの言葉が、その転回を表現するキーワードのように思えます。
ESG投資は、あまりなじみのない言葉かもしれません。E=Environment(環境)、S=Society(社会)、G=Governance(統治)に配慮した投資を意味します。このところ、年金の運用を行っている投資ファンドの存在感が大きくなっていますが、それは、なんといっても資金の額が巨大であることと、業務上、長期的に安定で、かつ堅実な投資先を求めることにあると思われます。パリ協定がその序文にあるように「気候正義」を旗印にしているとしたら、年金ファンドは「ESG正義」を旗印にしていると言えそうです。
ESGは、今後の人間活動全体の指針になる概念だと思いますので、今回のブループラネット賞受賞者も、この枠組みと関係付けて考えてみたいと思います。
さて、受賞者のパバン・シュクデフ氏ですが、環境経済学分野で業績を上げました。企業活動ではややもすると無償の資源だと考えられがちな生態系からのサービスの価値を、いかにして企業の内部に取り込むか、という発想を基本とする包括的グリーン経済の発展に貢献されました。
あらゆる経済活動は、環境に対してもっと配慮しなければならないと主張し、インパクトが大きかった報告書があります。最初の例が、2007年に発表された「スターン報告」と呼ばれるもので、気候を安定化するために温室効果ガスの濃度を下げるには、世界のGDPの1%程度のコストが必要となるが、もし行動を起こさなかった場合、少なくとも世界のGDPの5%、最悪の場合20%の損失が発生すると報告しました。
これまで、経済活動の主な影響先は、気候変動、資源枯渇であるという理解でしたが、シュクデフ氏は、その考察対象を拡大し、生物、あるいは、生物多様性といった、ビジネスとはやや遠い距離にある環境要素も、極めて重要な影響を受けるということを示しました。これが最大の貢献ではないかと思います。
特に、UNEP(国連環境計画)の報告書である「生物と生物多様性の経済学」(TEEB=The Economics of Ecosystem and Biodiversity)の研究リーダーとしての貢献は、非常に大きなものでした。2008年5月から順次出版された報告書の量は、実に膨大なものです。
TEEBの思想を一般的な企業に拡張したシュクデフ氏の著書が「企業2020」で、企業経営に関する考え方が明確に、かつ、強烈に記述されています。特に、生態系はタダではない。したがって、企業経営の勘定の中に、その利用・影響を取り込むことが、最低限必要であるということが基本的な主張になっています。
良い自然環境は、企業経営では、自然資本と呼ばれるのが普通ですが、資本の一つでありながら、企業の会計基準に組み込まれることは希でした。シュクデフ氏の尽力によって創立された自然資本連合などのメンバー企業が、単に利益を生めばよいという企業の概念を変えつつあります。今後、このような方向が主流になることを期待したいと思います。
もうお一人の、マルクス・ボルナー教授ですが、その貢献は、いくつかの地域における自然保護活動です。インドネシアでのスマトラサイの調査活動が最初の仕事であり、この研究で博士号を獲得されています。
その後、フランクフルト動物協会に所属され、タンザニアに新しい国立公園を作る支援をするために、アフリカが対象地域になりました。タンザニアと隣国との紛争が終結し、セレンゲティ国立公園を整備拡張することに取り組まれました。
当時最大の問題は、大きな組織が巨大資本をバックに象牙やサイの角を狙う密猟でした。保護地域の10万頭もの象が、数年で3万頭にまで減るといった状況でした。もっとも危機的だったのはクロサイで、生き残ったのはたった2頭のメスだけになり、その対応のためにボルナー教授達は、南アフリカから30頭ほどの同種のクロサイを持ち込んで、国際自然保護連合の規定に則って保護した結果、120頭にまで増やすことができたとのことです。
ボルナー教授の考え方で重要なことは、金銭の獲得を目的とした密猟を法規制によって防止することだけでは十分ではなく、その地域の住民に保護の重要性を理解して貰い、公園監視員といった資格を与えて、生活できるだけの給与を払い、監視がきちんと行えるだけの車や無線機も整備することが必要だということです。さらに、地元の人々に、土地そのものの権利、さらにはその土地に生息する動物権利を与えました。
すなわち、ボルナー教授の最大の功績は、環境問題としての自然保護(E=Environment)の視点だけでなく、生活できる社会を作る(S=Society)といった要素も実現しなければ、長期的に継続する(ほぼG=Governance)自然保護は不可能であるいうことを世界に示すことができたことであり、これがもっとも重要なメッセージであったと考えています。
最後のまとめです。現実の社会を振り返ると、世界の状況が自国の経済を最優先する動きに戻りつつあり、かつ、テロの頻発などによって、かなりカオスな状態になりつつあることが気になります。ESGという概念をより深く追及することが、今後のあらゆる問題の解決につながると考えていますので、今回のお二人の受賞者の業績理由をそのような観点から解釈してみました。
安井 至 Itaru Yasui
国際連合大学元副学長
東京大学名誉教授