1. 複雑で予測不可能な自然現象

西ドイツのバイエルンにて

シェルンフーバー教授は第二次世界大戦の終戦から5年後の1950年に生まれ、西ドイツ・バイエルン州南部の小さな農場で育ちました。
自然の豊かなところでしたので、幼いころの教授はいつも近くの森や野原で遊びまわっていました。森の中を夢中で歩き回っているうちについ夕食の時間におくれてお小言をもらうことも…そんな幸せな少年時代でした。

幼少時代

幼少時代

まだ国が戦争から立ち直っていないころで、教授のお父さんは農業だけでなく建設の仕事などもけ持ちして家族を養っていました。
そんなふうでしたからゆうふくではありませんでしたが、おじいさんは町長、大おじさんは歴史の研究家など、家族はそうめいな人ばかりでした。家族の話題といえば歴史や政治、芸術。そんなことを果てしなく議論する文化のかおり豊かな家庭でした。
特に教授と仲が良かったのはお母さんです。元・看護婦をしていたお母さんは、教授が何かを知りたがって質問をするといつも答えてくれました。このような家族に囲まれて、教授の知的こうしんは育まれていったのです。

小学校の時から成績ゆうしゅうだった教授は9さいの時には読書に目覚め、毎日、地理や小説などあらゆる種類の本を読みあさり、想像の世界を飛び回りました。森や野原に遊びに行く以外の時間は常に何かしら読んでいたのです。そうして、以前よりももっといろいろなことに興味を持つようになりました。

(宇宙は何からできているんだろう、星はどうしてあのように見えているのかな。)
10歳くらいになると三歳半年上のお兄さんといっしょに空を見上げては、天体の本などを読むようになりました。将来、専門とする「物理学」への興味の芽生えでした。

小学校時代 前列<ruby>左<rt>ひだり</rt>端<rt>はし</rt></ruby>が教授

小学校時代 前列ひだりはしが教授

科学と平和

1962年、シェルンフーバー教授が12さいのとき、キューバ危機という、世界が全面核戦争の一歩手前までいく事態が発生しました。冷戦の最中でかくへい競争が盛んだったころです。科学が時としておそろしい力を持つことについて、教授は深く考えるようになりました。
(どうしたら第三次世界大戦をけられるんだろう。)
アインシュタインの本を読もうと考えたのはこのころです。だいな物理学者であるアインシュタインの研究は人類に多大なおんけいをもたらしました。しかしかれの発見は核兵器である原子ばくだんの開発にもつながり、そして彼はひろしまながさきへのげんばく投下を止めることができませんでした。

科学と平和

そのことをこうかいしていたアインシュタインは第二次世界大戦後、積極的に核兵器はいぜつと科学技術の平和利用をうったえるようになっていたのです。教授が初めて手に取ったアインシュタインのエッセイ「“Mein Weltbild”私のかいかん」には相対性理論や量子力学といった研究の話とともに、政治や平和への思いが記されていました。
ぼくもアインシュタインのようになりたい。」
それ以来、アインシュタインの科学者としての生き方は教授の指針となりました。

キューバ危機の後、きらびやかな文化をもたらした「黄金の60年代」がやってきました。ビートルズの登場により若者たちの間で一世をふうしたロック・ミュージックがアメリカやイギリスから西ドイツにも伝わり、これに14さいか15歳だった教授も夢中になりました。そんな時、クリスマスプレゼントにギターをもらった教授は大喜びし、さっそくバンドを結成して21歳までやっていました。他にもサッカークラブに入ったり、読書にも相変わらず夢中でサイエンス・フィクションにはまったりするなど、めいっぱい青春をうかしていました。

思い返しても楽しかった青春時代。よい時代を生きさせてもらった世代だからこそ、自分たちは次世代にこうけんする責任がある……そんな思いが今も教授の根幹にあります。

ギターとの出会い

ギターとの出会い

バンド仲間と 左側が教授

バンド仲間と 左側が教授

物理学の道へ

当時の西ドイツでは、子どもを大学に送れる家庭はほんの一にぎりで、教授の家でも、それまで大学に行った人はいませんでした。初めて大学に行ったのは、教授のお兄さんです。
その時、お母さんが教授に言ったことを、教授は今でもとてもよく覚えています。
「申し訳ないけど、お前を大学に送るお金はないんだ。だから、お前には農場を引きいでもらうしかないんだよ。でも、一つだけ可能性がある。」
お母さんが教えてくれたのは非常にゆうしゅうな生徒だけがもらえるしょうがくきんのことでした。それはギムナジウムで最優秀の成績を残し、卒業試験ではほぼ満点を取らなければもらえないというたいそうハードルの高いものでした。
「いいよ、じゃあそうするよ。」教授はそれしか方法がないのなら、やってやろうと決心したのです。そして、本当にそれを実現しました。バイエルン州はドイツでも特に卒業試験が難しいといわれていますが、そこで州一番の成績をとり、みごとに奨学金を取得したのです。

どこでも好きな大学を選ぶことができたので、教授はお兄さんと同じ家の近くのレーゲンスブルク大学で、興味のあった物理と数学を学び始めました。
大学生の時はたくさん旅をしていました。アフリカを旅した時にはサヘルの大干ばつにもそうぐうしました。その光景を目の当たりにし、教授は初めてかんきょう災害というものを実感したのでした。

大学時代 サヘル砂漠にて

大学時代 サヘルばくにて

ひとすじなわではいかない」のが世界だ

大学の博士課程を終えようとしていたとき、シェルンフーバー教授にすばらしいチャンスが訪れました。教授は博士論文で物理の根源的な難問にいどんでいたのですが、その博士論文の内容に著名な物理学者のグレゴリー・ワニエ博士が目を止め、アメリカに招いてくれました。
「これはすばらしい論文だ。実はUCSB理論物理学研究所(ITP)といって、最近アメリカにできたばかりの物理学の研究所があります。研究員として研究所に来ませんか。」と声をかけてくれたのです。
そこは夢のようなかんきょうでした。その研究所には80人ほどの研究者がいましたが、その多くがノーベル賞受賞者です。ちょっとコーヒーを取りにろうに出ればノーベル賞受賞者がいて、「お若いの、君はいったい何の研究をしているんだい」などと気さくに話しかけてくるのです。そうそうたる顔ぶれの中で知的な議論をり広げる毎日が、教授は楽しくてしかたがありませんでした。

ここで出会ったのが「カオス理論」です。
物理学は世界のあらゆる現象を解き明かすため、そこに法則をみいそうとする学問です。
従来の物理学では、現象をできるだけ単純化して理解するのが基本でした。しかし実際は、私たちの住んでいる世界には、不規則に変化したり、とつぜん大きな変化が起きたりと、単純化できない現象もあります。教授は、本当に興味深いのはこのような複雑で予測不可能な現象だと思ったのです。
カオス理論は物理学の中でもまだ新しい分野でしたが、最せんたんの研究を行うこの研究所に
は、カオス理論を研究するグループがありました。教授はそんな先生たちのセミナーをき、この新しい考え方にりょうされていきました。

1982年、ドイツに帰国した教授は、オルデンブルグ大学の物理学部のじゅん教授になり、カオス理論の研究を続けました。
このころ教授は、この世界でも特に複雑で予測不可能な「自然現象」を、カオス理論によって解き明かす研究を始めました。葉っぱはどのようにい落ちるのか、雲はどう流れるのか…そういった、一見、ちつじょみいすことが難しい現象を教授はカオス理論によって解き明かそうとしました。
幼いころからの自然への愛情と数式への愛情。それがこの時にゆうごうしたのです。

オルデンブルグ大学時代

オルデンブルグ大学時代

(写真提供:Institute for Chemistry and Biology of the Marine Environment)

2. なぜ地球温暖化を防ぎたいのか

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ハンス・J・シェルンフーバー教授

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